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天ぷら専門店として木屋町で産声をあげ、100年余り

100年ほど前に天ぷら専門店として木屋町で産声をあげました。当初は天ぷらの専門店として、60年ほど前に天ぷら割烹店へと転身し、更に現在の地に移転してからは手打ちそばや、各国のワイン、全国の地酒を数多く品揃え、舌の肥えた花街のお客様に親しんでいただいております。
また、お座敷では宮川町の芸舞妓さんとはんなりした会話や楽しいお座敷遊びなどとっておきのおもてなしで非日常をお楽しみいただいております。

芸舞妓さんによるおもてなし

 室町時代に焼失した北野天満宮の再建の際に残った機材を使って7軒の茶店を建てました。この地は御所より北にありましたので上(かみ)の七軒で「上七軒」と名付けられました。これが現在の上七軒の由来です。桃山時代には豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた際に7軒の茶店が団子を献上したところ大いに誉められて以来、また当時隆盛であった西陣旦那衆の後押しなどがあり花街として繁栄いたしました。

一方宮川町は、太閤秀吉が大和大路を敷設し、その街道沿いに発展したのが始まりと言い伝えられています。宮川とは祇園社の御輿洗いを行う川。宮川町の町名の由来は祇園祭です。

宮川町に芸妓さんが登場するのは、南座で歌舞伎の興業が盛んであった頃と言われています。
若衆歌舞伎の役者さんが南座の公演時に宿泊する宿場町だったと言われています。〇〇家とか〇〇屋なんて言う歌舞伎役者さんの屋号の一部は当時の宮川町の宿の名前だったという話を聞いたことがあります。現存しているお茶屋さんの名前に歌舞伎の屋号は存在していませんので真偽のほどは定かではありませんが…

人気役者が宿に泊まるという事で役者目当ての女性がそこで給仕をする。今で言えばアイドルの追っかけと言ったところでしょうね。その女性達が住み込みで働くようになる。役者や旦那衆はお座敷で芸を披露し楽しむ。その芸を給仕の女性が学ぶ。それがいつの間にかその伎芸で客をもてなす様になった。これが現在の芸妓さんの原型だと言われています。

現在、京都市内に芸舞妓さんは約250人、内舞妓さんは70人ほどと言われています。京都の大切な伝統文化であり観光資源でもある芸舞妓さんの社会的地位がもっと向上し安定した職業として認知されると芸舞妓さんを志す方が増え京都の魅力UPにつながると私は信じています。

㐂久屋 は、当初木屋町団栗にありました。
大阪で修行を積んだ私の祖父が国策でインドに渡り手にした資金を元手に天ぷらの専門店を開業します。
大変腕の良かった祖父の店は大いに繁盛したと聞いております。
時は、第二次世界大戦中、残念ながら木屋町の喜久屋は大火で焼失してしまいました。戦後の食糧難から飲食店の許可が下りず喜久屋は伏見の地で、旅館業を開業します。人里離れた伏見に豪華な料理旅館。
車がなければ行けない事が逆に功を奏し、大きな会社様の社用の接待でまたまた繁盛いたします。
しかし、祖父の時代はそう長くは続きませんでした。長らく患っていた糖尿病が悪化。先代15歳の時にあっけなくこの世を去ります。

カウンター越しの会話を楽しむ割烹の時代へ

先代が大学を卒業するまでの間、店の番頭さん達が必死に店を守り、いよいよ先代が店を継承した頃にはすでに料亭の時代ではなく、浜作さんやたん熊さんのようにカウンター越しに料理人がお客様と会話しながら好みの料理を創る割烹の時代でした。先代は、再び木屋町へ戻り、カウンター割烹の店へと転身します。
まさに東京オリンピックで日本中が盛り上っている頃でした。

そして私の代となりました。カウンターとお座敷の両方を持つ屋形を求め、生まれ故郷の花街宮川町へと移ってまいりました。
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